少林寺拳法とは


少林寺拳法は、開祖宗道臣によって始められた、護身錬鍛、精神修養、健康増進の

三徳の効果を備えた護身の技術であり、年齢、性別を問わず、誰でも技術を楽しみながら互いに上達を図る修練方法をとっています。
 
私達の日頃の修行は、学習の原点であります。

 

少林寺拳法の修練を通じて、互い協力し合って上達を図っていきますので、相手

立場を尊重する考え方が自然に体得できます。

そして実社会での正しい道徳観、倫理観、人生観等が習得できるよう、独自の教育

システム(科目表等)に則って、本部公認の指導者が直接指導いたします。

 

また相手の存在を認め尊重出来る人間、慈悲心と正義感をもち指導力ある人間像を

掲げて、修行に励んでいます。


当道場では、地域の老若男女が沢山修練していますので、私達の活動が地域社会の

健全性、活性化に役立ち、やがては人としての信頼を基本とした平和で豊かな社会

形成に貢献出来ると確信して活動しています。

 


       誰もが書けない浦安車庫だけの東京市バスから都バス走行の歴史

 

 東京市本所区乗合自動車が昭和初期から路線を広げたところで、本所と江戸川区域(南葛飾郡)の路面電車やトロリーバスの小松川から今井車庫~瑞江を経由して浦安方面路線、浦安車庫~雷、仲町西組や堀江から新小岩及び浦安~長島から行船公園、小島町、船堀経由して新小岩の便、東京駅へは浦安車庫、長島町、小島町、宇喜田、永代橋から日本橋に伸びる路線など多様な東京市バス路線があった。江戸時代の伝馬船(将軍家への献上や魚河岸への台所の一役を賄っていた)の結びつきで日本橋と深い文化的、生活的と経済圏、地理的に一体だ。本質的に千葉県ではなく、東京都(東京市)と浦安は歴史的、文化圏と経済圏等々が常に一体化された経緯、経済圏、文化や歴史を知らなければ為らない。

更に、浦安車庫~錦糸町、亀戸なども中心となっていた。昭和10年の交通一元化で多く東京市に引き継がれ、平井方面(当時は逆井が駅前)~新川~今井車庫~浦安車庫として新たに組み替えられたが、戦中の路線縮小と組み替えで昭和204月には錦糸町駅~今井~浦安車庫(2分に1本)となった。

これ以外にも小松川車庫(後に、江戸川車庫)に引き継いだ路線としては新小岩駅~船堀~新川橋~浦安という系統があった。 昭和229月のカスリーン台風でこの系統も被害を受けたが、葛西橋が通行不能になって葛西橋から葛西・雷・浦安方面が運行休止となっため、12月に浦安車庫~雷~仲町西組~三角形のような路線になった。清新町は葦が繁った海面の中であった。昭和44年4月の「東京放射状16号線を相互に計画していて放置、浦安と葛西のコミニュティーを妨げて、江戸川区との風水害等の危険退避橋の橋梁を架設しない重要な姿勢と浦安の豊富な財源を搾取している千葉県」に「市民目線で考える。眠らさない」事を肝に銘じたい。

当時の浦安、葛西(田園風風景が広がり、浦安楽天地に遊びに来て縁続きと成った人達は沢山いる。)を筆頭に江戸川区、木場、東陽町、門前仲町などは東京市バスや都バスが唯一の交通機関のため救済が急務だったのだろう。当時の東京市長から美濃部都知事の浦安の東京都編入の意図、江戸川区と歴史的、江戸文化と地理的な位置に合致する「浦安を国交省の江戸川の都県境も」あって「東京市バス、都バスが走行されたこと(当時も都内と何ら変わらない伝統、歴史や文化などがあったこと。ですので都民意識が常にある事は当然である。三多摩エリアの世田谷、中野や目黒などの東京都とは異なること」を浦安湾岸エリアの中心地を語るさいに重要なポイントである。議員達の選挙公約として市民の「特別投票を行えば明白」である。

浦安車庫へ向かう都バス